鎌倉大仏の歴史とサーフィンの起源について
2008年 07月 05日

泰時は前年の6月に62歳で死亡したはずであったが、開眼式には「蒼白なれども、御脚、見あたらざる姿」にて出席していた旨、鎌倉時代の歴史書『吾々妻鏡』に記されている。この時点での大仏は木造であった。
現在は雨ざらしの鎌倉大仏であるが、当時は大仏殿に安置されており、しばしば自然災害の憂き目に遭遇する。
1247(宝治1)年、暴風雨の為に大仏が倒壊。この時の不思議は、大仏殿自体は無傷でありながら、なぜか中身の大仏だけが崩れ去ったことである。半ば手品のような出来事であった。当時の幕府の権力者であった梶原重景が、事件のことを知るや「あな、耳ぞ大きうなりぬれ」と発言したことから、重景をこの「手品」の首謀者とする説が有力である。
1252(建長4)年には、金剛製の大仏を造営開始。1335(建武2)年以降2度の台風で、いよいよ大仏殿が倒壊。大仏はあわや台座から転がり落ちようとする危機的状況に陥るも絶妙のバランスで耐えて、ニヤリ。付近の漁民が目撃している。
さらには1495(明応4)年、大津波が鎌倉を襲う。またしても大仏殿は倒壊し、さすがの金剛製大仏も強烈な波には耐えきれず、ついに由比ヶ浜の沖合にまで押し流された。
このときの騒動は、仏教説話集『今々昔々物語』(本朝編・下)に収録されている。
本書によれば、轟然と鳴り響く波の音とともに、解き乱れた螺髪(らほつ)を風になびかせながら海上を滑走する大仏の姿を、付近の漁民が目撃。
「あなや、大事なるぞ。いざ、吾も追わむ」と、その子が携えていた板切れを奪うや、自らも大仏の後を追って海へと漕ぎ出していった有様が、やや脚色を交えながらもヴィヴィッドに描かれている。
この鎌倉大仏の挙動が、サーフィン、もしくはサーフボード開発の発想となった。ハワイ諸島の一部の島で、「波に乗る者・あるいはその行為・またはその道具・もしくは鎌倉」を、"Kamakura"と呼称するのは、その所以である。
余談ではあるが、現在サーフ・ブランドとして著名なT&C社は、設立当初、その企業ロゴに、ライン上をサーフする精神的苦悩を表すべく【波に乗る鎌倉大仏】(Kamakura great image of buddha to ride the crest of wave)を考案した。しかしながら、本家・高徳院の許諾を得ることができなかったため、現在の陰陽ロゴを選ぶに至るというエピソードは、あまり知られていない。
同社の創設者であるCraid Sugihara氏が「(大仏は)屋根もない場所にさらされっぱなしなのに、ロゴの方がお蔵入りするとは」と呟きながら、がっくりと肩をうなだれて浜辺を歩く姿を、付近の漁民が目撃した。
by riv-good
| 2008-07-05 01:40
| 掌編小説『瞼の裏側』